鳶飛魚躍

 対人恐怖症、統合失調症と共存して生きています。日頃の行いを頭の中で整理する為のアウトプットとして利用させて頂いております。ご容赦下さい。気分屋で症状のこともあり、課せられて書く、載せるよりかは暇潰し程度に気分が乗った時に日記程度にのせてます。

他人と共存する中において、中(家族)はかけがえのない存在だと内に籠る自身。

 こんばんは。今日も寒かったですね。私は今日、受診しようと決めていたのですが、朝から何回か、起きてはしんどくて寝て、起きては寝てを繰り返していたのですが、何回目かで観念して起きて病院まで送ってもらいました。病院はいつもと変わらず、陰気に満ちていました。落ち込んだというよりかは諦めている、というよりかは自ら病を受け入れている方ばかりです。私はずっとこのひとたちとは何か違うと自身を異質と捉えていたのですが、受け入れて前に行こうと進んでいると捉えることができます。このひとたちは、病に平伏すことを肯定して受け入れているんだと思っている今現在の不思議な感覚の自身がいます。今現在の自身の感情は良いことなのか悪いことなのかはわかりません。私は只管に病と向き合い、もがき、苦しみ、堪えている身であるからです。私はこういう生き方を変えようとは思わないです。絶えず自身の生き方で病と向き合い、付き合っていくつもりです。私は大多数の精神科患者が拒絶せず、病状を受け入れていくことを肯定しています。でも自身の肯定とは、向き合い、連れ歩くことです。兄のことも肯定したい為でもあるのかもしれません。答え等自身で創っていくしかないからです。私は訪問看護も午後からあって、疲れて話しをしていたため、少し愚痴めいたことを言ってしまいました。昨日、職業相談所からの電話で仕事の話しが一件あったのがなくなってしまったので少し落胆しました。期待して生活パターンを少し替えていたので、何の為の期待感と不安感だったのかと気持ちの置き所がない感じです。やり場のないフラストレーションが多少あったのでつい話しに熱を込めて看護士の方に迷惑を掛けてしまったようです。今日はあまりいい日ではないなと思っていました。でも少しの情報で多少上向きつつあります。私の感情、心はとことん単純です。「移行していっている」「ひとを想うことは贅沢な時間」という言葉を自身なりに解釈しました。進まずに生きて居るように見えても、体力を維持している(しようとしている)ということは進まずに努力している。離れていても、親、兄のことを気に掛ける時間を豊富に頂いている。ひとを想うことを幸せと捉えると自身には配偶者も居なければ、恋人もいないので私は悲観しがちだったのですが、家族という枠組み(親、兄)の繋がりによって、私は今現在繋がりをもっているひとを想うことが出来ているので、幸せと考えてよいかと思いました。この後本を読みたいので、このくらいにしようと思います。家族には衝突はあっても、他のひとには謙虚である自身であれることを願って締めます。